貴方の見ているドメインは

ドメイン www.wandarine.com

このページについて

    やゝあつて徳次が訊いた。

    心中もその宿を出て、近所の海岸から入水するか、山や森へ入り込んで劇薬自殺を企てるたぐいは、旅館に迷惑をあたえる程度も比較的に軽いが、自分たちの座敷を最後の舞台に使用されると、旅館は少からぬ迷惑を蒙こうむることになる。

    河原町の評判では、徳次は怠け者といふことになつていた。恐らくそれは、河から上つた徳次が水をはなれた河童のやうになすところを知らぬげなぽかんとした様子に起因していたのだらう。彼は怠け者ではない。彼にはきつと、自分の気に向いた仕事にだけ熱中する子供染みた無邪気さが他の人よりはよけいに残つていたのだ。その証拠には、河に下り立つてからの彼の動作には、別人のやうにきびきびした手順のよさと云つた風なものがあり、間もなくわき目もふらずに働きはじめたのを見ても判る。冬近い時候なのに、額には汗が流れていた。彼は時間のたつのを忘れていた。

    橋本屋といふのは下手にある、こゝらで唯一つきりの小料理屋だつた。夕方、そこで近在の馬喰ばくらうが二人のんでいた。徳次がそれに加つた。大分酔がまはつた頃、一人の男が黙つて入つて来た。それはゴマ塩頭の薄いメリヤスシャツの上に夏背広をぢかに着こみ、巻ゲートルに短靴をはいた、初老に近い痩せ身の男だつた。

    「いや、どうも。恐縮です」

    房一はまだ考へ深さうにしていた。

    さう云ひながらぽんと軽く下腹をたゝいた盛子の巧みな、しなのある手つきが目に浮かんだ。それは、そこだけ切つてとつたやうな鮮かさで残つていた。

    さう云ひすてて、大きな音を立てて下駄をひきずりながら立去つたのだ。

    彼の妻の茂子は昨日実家へ帰つたばかりで、この家にはいないのである。

    盛子は、歯切れのいゝピツと語尾の跳ね上るやうな調子で、愛想笑ひをしながら小谷に訊いた。

    今泉は調子づいた。

    その筈だつた。庄谷と房一の家とはかなり前まで遠い縁つゞきであつた。房一の死んだ母親と庄谷のやはり亡くなつた妻とは又従妹か何かにあたつていた。だが、さういふ程度の関係は知らぬ顔をすれば他人で通る位の間柄である。生前にも別につき合ひはしていなかつた。まして、二人ともこの世の者ではなくなつた今では、思ひ出せばさういふこともあつた、位の関係でしかない。

    「私もこれで元は法律書生でしてね。司法官か弁護士試験でも受けるつもりで、神田の私立大学に通つていたもんです」

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40